2014年9月19日

[2014年9月19日] 第12回 Bol

第12回 インド映画研究会
  • 日時: 2014年9月19日(金)16:00~19:30
  • 会場: 京都大学 総合研究2号館4階 415教室
  • 報告者: 水澤純人(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
  • 題材: Bol(パキスタン、2011年、2012年福岡国際映画祭観客賞受賞作)
(2014年7月31日作成、10月3日更新)


[報告と議論の概要]

Bol(邦題「声をあげる」, 以下、ボル)はパキスタンで20116月に上映開始されたウルドゥー語映画である。監督はテレビの音楽番組の演出家として名を成したショヘイブ・マンスール氏で、本作は2007年のKhuda ke liye(邦題「神に誓って」)に次ぐ2作目の作品である。出演する主なパキスタン人俳優の大半はこれまでモデルや歌手として活躍してきており、映画デビューは本作が初めてである。新進の監督と映画初出演の俳優が作り上げたという点で本作は実験的な取り組みともいえるが、国内ではこれまでの興行実績を大きく上回る評価を受け、海外でも幾つかの賞が授与された。パキスタン映画は80年代以降、政府の映画産業への規制やビデオ・カセットの普及によって海賊版のインド映画に大きくおされ、庶民の娯楽としての地位を失ってきたと言われる。また、決まりきった陳腐なストーリーと同じ俳優の使い回しに終始していると揶揄されてきたが、2000年代に入りそうした評価を覆す作品が出て来ており、本作もそうしたパキスタン映画界の新たな変化を告げる作品の一つに数えられる。
 あらすじの紹介に入る。映画は父親を撲殺した罪で絞首刑に処される女性・ザイナブが刑執行前に詰めかけたレポーターへ行為に至った背景を語る場面から始まる。語りの中心となるのは、彼女が夫との不和から戻って来た後の実家の家族模様である。家族は両親とザイナブも含めた娘7人、そして一番末の、身体は男性であるが自己認識としては女性であるトランス・ジェンダーの息子から成る。父は祖父の代からの伝統医であるが、近代医学の台頭におされて収入は減っており、一家は経済的に苦しい状況にある。そうした状況下でも父は男児の誕生を願って妻に子供を産ませ続けようとしており、そうした父の態度に反発するザイナブは、母の身体を思って父の留守中に不妊手術を受けさせる。語りの中では家族に対し自らの行為をイスラームの名のもとに正当化し、押し付けようとする父とそれに反発するザイナブの姿が度々出てくる。母に不妊手術を実施した事をザイナブが父に告げる場面もその一つであり、事実を知った父の激昂を前にザイナブは、厳しい経済状況で子供を産ませ続ける事へ論理的に反発する。
 一方、父と一家の心配の種は子供の成長と共に別の問題へも拡がっていく。一つはトランス・ジェンダーの息子の存在であった。幼少の頃から父は周囲の目を憚ってその子を家の一部屋に隠し名前すら与えず、その存在を無視しようとし続けてきた。一方、父に代わって母と娘はサイフィーと名付けて可愛がってきたが、成長するに従いサイフィーの行く末を母と娘は案じるようになる。解決策として、母娘は絵の才能があるサイフィーをトラックのペイント工場に働きに出し、社会進出を促すことにした。しかしながら、働き出して間もなく同僚にレイプされ、痛々しい姿で戻ってきた。その晩、事実を知って将来を悲観した父はサイフィーを絞殺してしまう。問題はこれだけでは終わらず、殺した事はやがて警察に知られる事となり、事実のもみ消しに父は20万ルピーを払わなくてはいけない事になる。お金の工面に困った父は、信用を担保にモスクの運営委員会から預けられていたお金に手を出し当座をしのぐが、そのお金を再度委員会へ返さなければならなくなった際、動転してしまう。
もう一つの心配の種は、娘の一人であるアーイシャの結婚である。アーイシャは隣家の医科大学に通う青年・ムスタファと幼少の頃からの仲であり、ムスタファとの結婚を夢見ていた。一方、父は隣家がシーア派に属し、スンナ派の自身の家族とは相いれないと主張し、娘のムスタファとの結婚に反対する。二人の関係の進展を恐れた父は娘を早く結婚させることに決め、自分より年齢が低ければいいという条件で話を進めるが、それを知ったアーイシャは悲嘆にくれる。
 話は前後するが、お金の工面に困った父は、返済金を、聖典クルアーンを子供に教えるために通い始めた売春宿の主人から融通してもらう事になる。その条件は、お金と引き換えに宿の娼婦(ミーナ)に子供を産ませる事であった。父はミーナと二回目の結婚をし、彼女のもとへ通うようになる。一方、アーイシャの望まない結婚を止めようと、ザイナブはムスタファの家族の提案もあり、父の留守中にアーイシャとムスタファの結婚をとりおこなう。この事実を帰宅後にザイナブから知らされた父は激昂し、ザイナブを殴りつける。この頃から父は、自分がザイナブを殺してしまうのではなないかという思いに駆られるようになる。
やがてミーナは父の子を妊娠し女児を出産するが、将来、娼婦となる事が決まっているその子の行く末を悲嘆し、父は女児を引き取ろうとする。しかし、当初の約束と違うと激昂した宿の主人にリンチを受け、二度と来るなと追い出されてしまう。帰宅した父は、食事ものどを通らなくなり、欠かさずしていた礼拝すらも忘れてしまう。ところがある晩、ミーナがこっそりと家を訪れ、娘を手渡すと何も言わずに立ち去ってしまう。事情を知らずに受け取った家族は、父から事の顛末を知らされてショックを受ける。そして、その晩、一家が床に就いた頃、売春宿の主人が女児を取り返しにやってくる。慌てた父はその子を殺してしまおうとし、止めに入ろうとしたザイナブは傍にあった棒で父を殴りつけ殺してしまう。
 以上を語ったところでレポーターに許された時間は終わりとなる。ザイナブはまだ語り終えてないと抗いながら、最後に以下の言葉を叫ぶ。それは、「人を殺すことが罪となるのに、子供を産むことは何故、罪とならないのか」であった。
 以下では映画の概要を踏まえ、出席者から主に出された感想・質疑四点とそれに対する報告者のコメントを述べる。一点目は、静けさ、あるいは一昔前の映画を観るような落ち着きで象徴されるインド映画との相違であり、ある出席者からはそうした点で、以前インドで観たベンガリー映画に共通する印象を受けたと指摘した。確かに、本作でもインド映画同様、歌や踊りのシーンが挿入されているが、ボリウッドに比べると表現の仕方は控えめである。また、古都ラホールが舞台であり、描かれる家族像も保守的なため、全体として古色蒼然とした印象を抱かせたのかもしれない。ただ、パキスタンに長く滞在した報告者にとって映画の情景は極めて馴染みやすく、ボリウッド映画の描写は時に過剰に映る。ボリウッドとの差異は、南アジア映画の多様性の一端を示しているものとポジティブに捉えたい。
 二点目は、この作品が以前の興行を大きく塗り替えるヒットとなった理由であり、これには作品としての質の高さに加え、(推測ではあるが)近年のパキスタンでの最新設備を導入した映画館の増加と関わっていると思われる。“低品質”とされる国産映画を上映する映画館とは別に、ハリウッドやボリウッドをメインに上映し、ショッピング・センターにも併設される立派な映画館を大都市では見掛ける。こうした映画館は2000年代にムシャラフ政権が誕生して以降、増えてきたもので、ボリウッド映画の上映解禁(2005)も同政権下であった。ボルの上映は集客力もあり入場料も少し張る新たな映画館の増加の時期と重なった。そして、作品自身もこうした新たな映画館で上映される条件(内容、想定する観客層)を満たしていた事が興行記録の塗り替えに至ったのではないだろうか。
 三点目は、映画のメッセージが曖昧であり、仮にフェミニストが観た場合、「産むのが罪にならないのは何故か?」というメッセージは非常に弱く映るという指摘である。ただ、その良し悪しとは別に、伝統的なジェンダー規範への挑戦と捉えられるような表現を盛り込んだ作品は、パキスタンでは作成が難しいという状況がある。ボルも含め、ショヘイブ・マンスール監督の作品はパキスタンではイスラーム団体から不適切であると訴えられてきており、監督自身も身の安全を考慮してか公の場にはほとんど姿を見せないと言われる。パキスタン映画の評価にはこうした表現の内容を規定する外部要因も考慮する必要がある。
 四点目は、孤独な男性像としての父親への共感である。この作品では権威主義的な父の下で苦しむ母娘に焦点を当てたシーンが多く、報告者も女性への抑圧を映画のテーマと考えていた。しかし、鑑賞した男性たちから寄せられたのは、信仰と現実の乖離や、威信への執着によって苦しみ追い込まれていく父親への静かな共感であった。
最後にこの作品は鑑賞者の立場によって様々な読みを提供してくれており、その事に何より報告者自身が気付かされた。今後もこうした海外の観客の目にも応える作品が世に問われ、パキスタン映画、ひいてはその背景となっているパキスタン社会への関心が高まっていく事を切に願って止まない。

参照文献
  • 麻田美晴. 1987.「三 民衆と芸能」小西正編『もっと知りたいパキスタン』弘文堂.
  • 麻田豊. 2012.「パキスタン映画総論」夏目深雪・佐野亨編『アジア映画の森:新世紀の映画地図』 作品社.
  • Gazdar, Mushtaq. 1997. Pakistan Cinema, 1947-1997. Karachi: Oxford University Press.
(文責:水澤純人)